杉原千畝展・・・命のビザとティーセット
初カフェ、初ランチ 初飲み会も終わり、先日JRタカシマヤで行われている「杉原千畝展」へ行ってきました。
初カフェは、徳川園

1940年7月から8月にかけて、杉原千畝さんがリトアニアのカウナスで
大量のビザ(通過査証)を発給し、6000人ものユダヤ人の避難民を救ったことは、よく知られています。
日本の本省からは、ビザ発給に関して
「受け入れ行の入国手続きが済んでいて、旅費、日本滞在のお金を持っているものだけにのみ発給せよ」
という指示が送られてきたそうですが、
「人道上、どうしても拒否できない」 と命令を無視、ビザを発給し続けたことはご存知の通りです。
展示を見進めていくと、背中を押した杉原夫人の覚悟や、
杉原ビザを無駄にしないよう、国の命令をかわしながら難民を支援した人々が存在したことを知り、
6000人の命を救った人々の連携に、胸が熱くなりました。
千畝さんは、名古屋の高校を卒業していて、江戸川乱歩と同窓生だそうです。

父親に医学部を受験するよう強要され、英語の教師になりたかったので、答案用紙を白紙で出したとか…
自分の意思を通す頑固さが、国の命に背いても命のビザを出すことを選択したことと重なります。
展示会場を入ってすぐのところに、杉原ビザを受給した人たちの名簿が展示されていました。
それを見ていて、去年6月にボランティアの企画展で名古屋東区の陶磁器を調べた時に読んだ
バンクーバー新報に掲載された、千畝ビザに関連した記事を思い出しました。
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(ウィキぺディアより)
杉原夫人が、難民たちの中にいた憔悴する子供の姿に目を留めたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かんだ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。